月鉾の由来
月鉾は文献によりますと、応仁の乱以前よりあり、その昔は「かつら男ほく(ほこ)」と呼ばれていました、鉾頭に“新月”をいただき、天王座には“月読尊”を祀っていることから、その後“月鉾”と呼ばれるようになりました。
月鉾は、山鉾33基の中でも最も大きく重い鉾です。そして、鉾を飾る装飾も細部に至るまで素晴らしく、動く美術館と讃えられています。
「古事記」によれば、伊奘諾尊が黄泉の国から戻り、禊祓いをされたとき、左眼を洗って天照大神、右眼を洗って月読尊を、こののち鼻を洗って素戔嗚尊を生んだとされました。
この時より月読尊は夜を支配する神となりましたが、水徳の神でもあることから、月鉾には、月や水に関連する装飾品が多くみられます。
鉾頭には18金の三日月。鉾の屋根鬼板部分には三本足の烏(ヤタガラス:神話では太陽の使いとされている)、屋根下の破風部分は時計草などの細密な金具彫刻で覆われ、破風中央下には、左甚五郎作といわれる“うさぎ”の彫り物があります。
屋根裏には、江戸中期を代表する画家、円山応挙作の“金地彩色草花図”。天井裏には、岩城清右衛門作“源氏物語五十四帖扇面散図”。
前掛けは、17世紀インドムガール王朝時代の「メダリオン緞通」、見送りは皆川月華作“黎明図”、また天水引には、円山応震下絵の“霊獣図刺繍”等々、見ごたえのある装飾品で飾られています。